つむぎ語り~心を紡ぐ、言葉の旅

語り口調のエッセイよ。

軍艦島の思い出 – 母が語る島での日々

私の母は9歳頃まで、あの世界遺産にもなっている軍艦島で暮らしていたのよ。

端島、通称「軍艦島」は、長崎県に浮かぶ無人島。

日本の産業革命の立役者となった炭鉱の歴史が刻まれた、特別な場所なのよね。

この島が「軍艦島」と呼ばれるのは、遠くから見ると軍艦のように見えるその独特の外観から。

かつてのこの島には、炭鉱で働く人々のための住宅や公共施設が所狭しと立ち並び、日本一の人口密度を誇る賑やかな島だったそうよ。

軍艦島はまるで要塞そのもの。

コンクリートで作られた高層の建物が密集した景観が広がっている。

時が経つにつれ、風雨にさらされて建物は朽ち、今では廃墟のような姿を見せているけれど、その迫力は今も健在よね。

1974年に炭鉱が閉山されてから無人島となり、今では歴史の一部がそのまま時を越えて残っているような場所。

この場所は、映画やドキュメンタリーの撮影地としても人気が高く、歴史や廃墟ファンからも注目されているの。

まさに「日本の産業遺産」の生きた証人のような場所よね。

今もなお、軍艦島はその朽ちた姿の中に、かつてのにぎわいと歴史の重みをたたえ続けているのよ。

軍艦島無人化したのは今から約50年くらい前でしょ。

三菱財閥が本格的に開発を始めたのは1890年だから、そこから数えると約130年も経つんだからそりゃ年季入るわよ。

さらに、日本初の鉄筋コンクリート製集合住宅が建てられたのが1916年、つまり約110年前くらいにあれが建てられたんだからすごい技術だと思うの。

そんな軍艦島が以前テレビで放映されていて、母が懐かしそうに話してくれたわ。

あのコンクリートの建物や狭い道、当時の生活がよみがえってきたみたい。

母が住んでいたのは、島の左の端の方。

そこから小学校まで歩き、そして中ノ島、通称「ねずみ島」まで見渡せたらしいの。

ねずみ島は、島の人々が火葬をするために使っていた島。

母の祖父も、そこに家族の一人を火葬したそうよ。

母はその光景を今でもはっきりと覚えているそうで、軍艦島から見えるたくさんの火の玉が、夜の空に浮かび上がるようにぐるぐると舞っていたそうよ。

不思議だけど、どこか神聖で、敬虔な気持ちで見守っていたんでしょうね。

母は「あの火の玉たちは、亡くなった方たちの魂かもしれない」って感じていたみたい。

そんな母は2歳くらいから島のお寺に通っていたそう。

小学校にあがり9歳まで軍艦島で過ごしたそうよ。

その間、冒険好きな母も何度もケガをしていたみたいで、ある日なんかは溝に落ちておでこをケガしたりもしてたらしいわ。

今でもおでこに傷が残っているわね。

銭湯で沈んでいた時もあったらしいけど、よく生還したわね。

銭湯といえば、母の父、つまり私の祖父は、軍艦島にあった銭湯で番台をやっていたそうよ。

あの小さな島の銭湯で、きっと毎日たくさんの人が訪れて、にぎやかだったんじゃないかしら。

昔ながらの銭湯で番台に座っている姿、ちょっと見てみたかったわ。

そんな私の祖父は釣り好きだったらしく、岸壁で釣りをしていたそうで、大きなヘビのようなのが釣れて、幼い母はびっくりしたらしい。

今なら、幼い子を連れて岸壁で釣りなんて考えられないけどもね。

あと、ベランダの手すりが突然外れて、お姉さん二人が3階から落ちてしまったことがあったんですって。

聞いただけでヒヤッとする話だけど、幸いにも無事だったそうで本当に良かったわ。

今じゃ考えられないけど、あの頃の島の暮らしって、そんなエピソードも当たり前のようにあったのかもしれないわね。

お盆になると、やぐらが立ち、母の兄、つまり私のおじは祭りのときにはやぐらの上で歌ってたそうなのよ。

母が懐かしそうに歌ってくれた「端島音頭」。

これ、軍艦島のお祭りで欠かせない音頭だったそうで、やぐらの上で島中に響き渡っていたみたい。

母もかなりうまいけど、おじも歌が上手だったみたいで、島の人たちにとっても楽しみな一幕だったらしいわ。

おじがやぐらの上で歌い、母もその「端島音頭」を口ずさみながら聞いていたあの頃の情景を想像すると、まるで祭りのにぎやかさが聞こえてくるみたいよね。

そんなお兄さん、私の亡き叔父は、軍艦島の炭鉱で働いていたのよ。

端島炭鉱、通称「軍艦島炭鉱」、この島で石炭が発見されたのは1810年頃のこと。

明治時代から三菱財閥によって大規模に開発が進められ、日本のエネルギー供給の中心地として大勢の労働者が集まる、活気に満ちた場所だったの。

でも時代が進み、エネルギー源が石炭から石油へと変わることで、1974年に端島炭鉱はついに閉山され、島の人は島から出ることになったのよ。

母の家族は閉山されるずっと前に出たらしいけど。

それにしても、当時の軍艦島での生活ってなかなかハードだったようね。

海の真ん中に浮かぶ孤島だから、波が荒れる日は大変だったみたいなの。

母が語るには、波しぶきが3階まで打ち上がってきて、海からの石が家の壁に当たることもあったんですって。

小さな島に大きな波がぶつかる様子、考えるだけで迫力があるわよね。

圧倒されながらも、日々の生活の一部として受け入れていたのかもしれないわ。

母にとっての軍艦島での生活は、そんな自然の猛威とともに過ごす日々でもあったのね。

軍艦島の住民がエキストラとして出演した映画『緑なき島』が撮影されたとき、祖父もエキストラとして登場しているんですって。

当時の人気俳優、佐野周二さんが主演で撮影が進められていたんだけど、母の姉は監督からスカウトされていたそうなの。

でも、父親が断固として許さなかったとか。

今思えば、叔母さん美人だったから映画女優になれたのに残念ね.....
『緑なき島』を見れば、祖父の姿がちらりと映っているのが見れるのにどこにも売ってなくて残念だわ。

軍艦島で育った家族が、その島の祭りや暮らしの一部として思い出を作っていたこと、なんだか感慨深いわ。

軍艦島って、今では廃墟として観光地になっているけど、かつてはたくさんの人が暮らし、笑い、泣き、そして家族の思い出がぎゅっと詰まった場所だったのよね。

母の話は、あくまでも子供の頃の記憶だから、少し曖昧なところもあるかもしれない。

でも曖昧さも含めて、当時の軍艦島での生活がどんなものだったのか、少しずつ浮かび上がってくる感じがするの。

あの小さな島には、まだまだたくさんの物語が眠っているんでしょうね。

(イメージ画で実際の軍艦島とは異なります)